繰返し聞き続ける古楽(9)-35  レヒナー モテト「もし主の御手から恵みを得るならば」 ハスラー モテト「主よいつまで私を」

レヒナー(独1550-1606) ハスラー(独1562-1612)はルネッサンスからバロック移行期のドイツの重要な作曲家である。ルネッサンス期は、音楽の後進国だったドイツが、ルターの宗教改革とともに新たな歩みを始めた。ルターは<万人司祭>の理念から母国語によるコラールを誕生させた。以来、ルター→ラッスス→レヒナー→ハスラー→シュッツ→バッハへとプロテスタント音楽は台頭してゆく。
レヒナーのモテト「もし主の御手から恵みを得るならば」は、胸にずんと染み入ってくるような美しさがある。
歌詞の中に「主が与えられ、主が奪われる...、裸で生まれ、そこへ裸で戻る」といういだりがあり、神への素朴な気持ちを音楽が紡ぎ出している。
一方、ハスラーのモテト「主よいつまで私を」は詩篇13に基づいているが、ほかにも「おお何とすばらしい贖罪」「主、イスラエルの神よ」などすばらしいモテトがある。ハスラーの「わが心みだれさわぎ」がマタイ受難曲のコラール「血潮したたる主のみかしら」に転用されている。

繰返し聞き続ける古楽(9)-34 ヴィクトリア レクツイオ「我が心は生活に疲れたり」 他

ヴィクトリア(西1548-1611)のレクツイオ「我が心は生活に疲れたり」は、ヨブ記10章1-7節から歌詞が採られている。
レクツイオというのは、朗読に曲をつけたものである。
聖務日課でヨブ記が歌われるというのは、結局は、自分のために神を求めているにすぎない、という応報思想への厳しい戒めである。
またヴィクトリアはグレゴリオ聖歌の交唱「アヴェ・マリア」をベースにヴィクトリア(西1548-1611)は4声と二重合唱のための「アヴェ・マリア」を2曲作っている。
前者は、グレゴリオの原曲がそのまま生かされた、デ・プレに劣らぬ美しいポリフォニーである。
後者は、マリアへの祈りを切々と歌う。

繰返し聞き続ける古楽(9)-33 ヴィクトリア 「死者のためのミサ曲」

ヴィクトリア(西1548-1611)は、ルネッサンス期スペイン最大の音楽家。
教会音楽家でミサ曲のほかにも、「アベマリア」をはじめ印象深いモテトゥスが数多くある。
「死者のためのミサ曲」は、皇帝マクシミリアン2世の皇后マリア(フェリペ二世の妹)の死を悼んで作曲された。
レクイエムの単旋律聖歌を定旋律として他の5声がポリフォニックにからむ形で展開するが、悲しみやさまざまな感情を完全に昇華してしまうようなハーモ二ーが美しい。

繰返し聞き続ける古楽(9)-32 W.バード  「5声のミサ」

バード(英1543-1623)の代表作は、「3声のミサ」[4声のミサ」[5声のミサ」である。
いずれも余計な装飾がない端正な曲ばかりである。
あまりにも完璧なハーモニーでただただ聞き従う以外にないような面もあるが、音と音が組み合わさって作られる力強さにいつの間にか呑み込まれてゆく。
中でも「5声のミサ」は、熟達したポリフォニーに感動する。最後のアニュス・デーの美しさは格別である。

繰返し聞き続ける古楽(9)-31 W.バード 「Sing joyfully unto God 」

「われらの力の神に向いて喜び歌い Sing joyfully unto God」 (詩篇第81編) は、W.バード(英1543-1623)の礼拝用アンセムのひとつ。アンセムとは、イングランド国教会の礼拝(サービス)のなかの短い合唱曲のことで、この曲は、一緒に歌いたくなる楽しい曲である。特に、「Blow the trumpet in the new moon(角笛を吹き鳴らせ、新月に)」という件りがくると、思わず口をついてしまう。この詩篇には、「(神が)雷の隠れたところで答える」というキーワードがあり、ルターの「隠れた神」という発想の典拠になったといわれている。つまり、苦しいときの神頼みというように、人間の都合で神が現れるという発想を強く彼は否定した。
また、「捕われ人を連れ帰ってくださいTurn our captivity 」(詩篇第126 編)も印象に残る作品である。
悲惨なバビロンの幽閉から帰還する喜びが「they shall come with jollity」という効果的な繰り返しの中で、表現されている。「涙とともに種撒く人は、喜びの歌とともに刈り入れる」といったこの詩篇の歌詞が素晴らしくじっくりとこの美しい曲を味わうことが出来る。
「アヴェ ヴェルム コルプス(めでたし まことの おんからだ)」といえば、モーツアルトの曲が合唱などで必ず歌われ有名であるが、バード(英1543-1623)の曲もすばらしい。
アヴェ ヴェルム コルプス(めでたし まことの おんからだ)というのは、カトリック特有の聖餐のパンとぶどう酒がキリストの体に変わるという秘蹟を祝う歌である。
おおもとのグレゴリオ聖歌は、最後に「ああ、愛するイエス、あわれみ深いイエス、マリアの御子イエス」と歌う時、子供のようなかわいらしさがある。
十字架にかけられたイエスの受苦が人間への愛の始まりであることを素朴に歌う。
バードの曲は、この後、さらに、「私をあわれみください」を付加し、何度もくり返えす。
静かに流れる短い曲であるが、聞くだけでもまた歌ってもその流れに溶け込んでゆくことが出来る

繰返し聞き続ける古楽(9)-30 W.バード  コンソートソング(清らかな英国半島)

W.バード(英1543-1623)は、ミサの名曲があるが、コンソート・ソングの作曲者としても素晴らしい。
コンソート・ソングというのは、ヴィオールの合奏(コンソート)の伴奏を持つ独唱、または2重唱の歌曲であるが、「清らかな英国半島Fair Britain isle」「喪服の天使in angel's weed」などを聞くと、死者を悼む哀歌,悲歌ということもあるが、胸に迫るものがある。「美しいスザンナSusanna fair」も美しい。また、「キリストは蘇りChrist rising again」コンソート・ソングが、小合唱に展開した賛美歌であるが、聞くものの心をとらえて離さない。

繰返し聞き続ける古楽(9)-29 コヴェントリ・キャロル  「ラリ ルラ、小さき子よ」

コヴェントリ・キャロルとは、16世紀の英国のコヴェントリで歌われてきたクリスマスキャロルで、「ラリ ルラ、小さき子よ(July,july thou little tiny child)」は作者不明、「ララバイ(子守唄)」は、ウィリアム・バード(英1543-1623)の曲である。
いずれも単なる子守唄ではなく、マタイ伝に出てくるがヘロデ王がベツレヘムで行ったという大規模な幼児虐殺事件を描いていて、イエスの降誕に伴う幼児への鎮魂歌である。子守唄のやさしさのなかに、母親の悲しみが広がってくる。特にバードの曲は、5人の歌手によるポリフォニーであり、多くの母親の言葉にならない深い嘆きが聞こえてくるようである。

繰返し聞き続ける古楽(9)-2 ロバート ホワイト 「エレミア哀歌」

ロバート ホワイト(英1538-1574)は、トーマス・タリス(英1505-1585)より少し後の作曲家で、ヘンリ8世からエリザベス1世に変わる、丁度、宗教改革によってカトリックからプロテスタントのスタイルへの変更を余儀なくされた時代の人である。
特に、「エレミア哀歌」は、タリスの作品とともに傑作とされている。
20分を超える長い曲なれど、聞くものを少しも飽きさせない。悲しみに満ちた響きがグイグイと迫ってくる。
また、モテトゥスも素晴らしく「主、汝にこたえたまわんことを」、「光にして日なるキリスト」など美しく崇高な曲がある。

繰返し聞き続ける古楽(9)-27 ラッスス 「レクイエム(5声)」

ラッスス(フランドル1532-1594)のレクイエムも素晴らしい。
ラッススのポリフォニーには、ナチュラルな美しさがある。
湧き出る泉の音をいつまでも聞いているような魅力がある。「レクイエム(5声)」は、グレゴリオ聖歌の「レクイエム」とポリフォニーによる声楽部が交差して歌われ、声楽部は常にグレゴリオ聖歌の定旋律を用いてポリフォニックに展開されていく。ラッソには4声の「レクイエム」もある。

繰返し聞き続ける古楽(9)-26 ラッスス「音楽は神の贈り物」他

ラッスス(フランドル1532-1594)は、パレストリーナとともにルネッサンス・ポリフォニーの完成者といわれる人である。
「音楽は神の贈り物」は6声部のモテトゥスであるが、ポリフォニーに深みがあり、調和のとれた美しい曲で、題名にふさわしい。
歌詞は「音楽は最高の神の贈り物であり、人を感動させ、神をも感動させる、音楽は激しい心を和らげ、悲しい気持ちを励ます。音楽は樹木さえ、また、恐ろしい野獣をさえ感動させる」というもの。日々古楽を聞く我々にとっても、音楽はまさに神の贈り物である。
また
「シオンよ汝の救い主を讃えよ」Lauda Sionは、グレゴリオ聖歌のセクエンツィア(続唱)の一つ。
この曲をベースにラッスス(フランドル1532-1594)が作曲した6声部のモテトゥス。
もとの聖歌にとらわれず、自由に作曲している。
この曲の言葉は、聖トマス・アクイナスによるものであるが、聖歌は聖体の祝日に歌われる。
ラッススのこの曲は20分以上、4部の言葉を歌いついで行くのだが、全く飽きることがない。
ポリフォリーの快い響きの中で音の流れに心を委ねることが出来る。

繰返し聞き続ける古楽(9)-25 パレストリーナ  モテット「鹿が谷川を慕うごとく」「バビロン川のほとり」

パレストリーナ(伊1525-1594)の代表的なモテット。
詩篇42、詩篇137に基づくものであるが、バビロンの捕囚など、イスラエルが破壊され、神に見放されてしまう絶望の時期の詩である。敵を倒す神はもはやいない、ひたすら苦しみをともにしてくれる受苦の神がいるだけである。
聖書には、羊がよく出てくるが、鹿が出てくるのは珍しい。愚鈍で迷いやすい羊と比べ、繊細でひ弱なイメージがある。喉が渇ききっていてもどこかノーブルな鹿のように、パレストリーナの曲もやさしく美しい。
このほか、モテット「我は日々罪を犯しPeccantem me quotidie」も胸にしみいるような一曲である

繰返し聞き続ける古楽(9)-24 パレストリーナ「教皇マルチェルスのミサ」

この曲は、ルネッサンス後期の大作曲家パレストリーナ(伊1525-1594)の代表作。
ルターの宗教改革でドイツ語による「コラール」が生まれ独自の教会音楽が育ってゆくなか、カトリックのミサの言葉が不明朗といわれた多声音楽を、言葉がよく聞き取れるという典礼の要請と芸術の完成度を両立作品として知られる。端正で明るく、透き通るような美しさがある。
また
「スタ-バト・マーテル」はペルコレージが有名だが、パレストリーナのこの曲も美しい。
調和した響きに、静かに打ち寄せる波のようなリズムがあり、おそらく聖母の極限の悲しみというべきの詩との緊張感が持続しているからであろう。

繰返し聞き続ける古楽(9)-23 アントニオ・デ・カベソン 「ディファレンシアス」「 ティエント」

アントニオ・デ・カベソン(西1510-1566 Antonio de Cabezon)は、モラレスなどとともにイベリア半島の大作曲家の一人。
フェリペ(カール)2世に仕えた盲目の宮廷音楽家でオルガンの作曲家ある。
スペインには古くからオルガンが使われてきたが、カベソンが16世紀,スペイン音楽にオルガン曲を開花させた。
彼は、スペインのバッハとも言われる。
「ディファレンシアス」は、変奏曲という意味である。
「騎士の歌」「イタリア風パヴァーナ」{ミラノ風ガリアリダ」などのディファレンシアス作品、およびべルソ(詩篇の1行につけた旋律をもとに作曲された対位法的楽曲)は、深い音楽の源流からこんこんと沸き出でてくるような素朴で新鮮な響きを感ずる。
また,カベソンには「ティエント」(スペインのオルガンの楽曲形式)の連作がある。

繰返し聞き続ける古楽(9)-22 トーマス・タリス 「4声のミサ」、モテット、アンセム

トーマス・タリス(英1505-1585)は、「エレミア哀歌」で有名であるが 「4声のミサ」や数々の「モテット」、「アンセム」「ミサ」が聞き応えある。
バード(英1543-1623)とともに、エリザベス1世時代、カトリックから英国国教会のために、ラテン語から英語を用いて音楽を作ることを要請された時代の作曲家である。
アンセムとは、イングランド国教会の礼拝(サービス)のなかの短い合唱曲で、英国国教会版モテットのことである。彼のラテン語によるモテットにすばらしいものがある。
「祭祀たちは食を断ち」(38-4)「神に従わない者は」(38-8)「わが罪を消し去りたまえ」(39-10)など悔悛モテットは、「エレミア哀歌」に通ずる感動がある。他に(NAXOS)「聖なる宴」「世の救い主」[見よ奇跡を」「御身の手に主よ」なども美しい。
また、アンセム「If ye love me]は、たった数分の短い英語による曲であるが、ラテン語でなくても、優れた音楽が可能であることを示した一曲である。ヨハネ福音書でイエスが「聖霊を与える約束をする」件の歌詞であるが、英語による軽みと明るさが、ラテン語にない新しい祈りのトーンを生み出している。
 「4声のミサ」は、4声の比較的シンプルなまとまりの中で快いハーモニーが展開する。ゆったりした流れに美しいささやきが交叉する。特にグローリア、クレドが美しい。
「ミサ曲の心地よい響きは、人間の(和声的)肉体に神が音として受肉する」(ウイルフリッド・メラーズ)ことであり、ポリフォニーはより深い表現を作り出す。

繰返し聞き続ける古楽(9)-21 トーマス・タリス「エレミア哀歌」

トーマス・タリス(英1505-1585)の「エレミア哀歌」は、ルネッサンス時代の英国における宗教曲の中でバードのミサ曲(3声、4声、5声)とともに特に美しいものとしてと知られる。
「エレミア哀歌」は旧約聖書に出てくる預言者エレミアが、紀元前6世紀、新バビロニアに滅ぼされたエルサレムの荒廃を嘆いたとされる歌である。原典のヘブル語で、詩の各節が、ABCのアルファベットで始まるように作られている。
「エレミア哀歌」は、タリスのほかにも、アントワーヌ・ブリュメリ(仏1460-1520),ホワイト(英1538-1574)やパレストリーナ(伊1525-1594)なども優れた曲がある。

繰返し聞き続ける古楽(9)-20 モラレス  モテトゥス「より良き生活のうちに」「羊飼いたちよ、語れ」

クリストバル・デ・モラレス(西1500-1553)は、モテトゥスにおいて素晴らしい曲が多い。
すべてに劇的な表現力と抑制の調和が実現されている。なかでも、「より良き生活のうちに」「羊飼いたちよ、語れ」が一層心に滲み込んでくる。
「より良き生活のうちに」は、歌詞が、「人間は,埃から生まれ死して埃に返るにすぎない存在である。」打ち砕かれた謙虚な心こそが人間にふさわしいと悔い改めを求める。「羊飼いたちよ、語れ」は「キリストのご誕生を」と歌うくだりに、えもいわれぬ喜びが感じられる。
このほかのモテトゥス「キリストのしもべアンドレア」「ヤコブは嘆きぬ」など美しい調べに堪能できる。

繰返し聞き続ける古楽(9)-19 ジャヌカン  シャンソン「狩の歌」「鳥の歌」「女のおしゃべり」

クレマン・ジャヌカン(仏1485-1558)はフランスの世俗歌謡シャンソンの作曲家であるが、言葉に鳥や動物の擬音や擬態語を取り入れるとともに、市民の日常生活を描写した歌を作り出していて、その独特でダイナミックな音の世界に圧倒される。
「鳥の歌」「狩の歌」など鳥、動物と言葉の混成体が、四声の複雑な音の組み合わせで展開するその技は神がかりでさえある。無条件に面白いし、この時代にこのような優れた労作が数多く作り出されていたことにただただ驚くばかりである。

繰返し聞き続ける古楽(9)-18 ニコラ・ゴンベール   モテット「命半ばにわれら死ぬ」世俗歌「兎狩り

ゴンベール(フランドル1495-1560)は、ジョスカン・デ・プレの弟子であり、ジョスカンより不協和音などを積極的に取り入れた複雑なポリフォニを作っている。
モテット「ムーサたちよ嘆け」は、ジョスカンの追悼曲で不協和音などの効果がよく現れている代表例である。
ゴンベールは、自作のモテット「命半ばにわれら死ぬ」をもとに、パロディミサを作っている。
和声の、低音に深みと複雑な音の推移に魅了される。
「命半ば」というのは、「永遠の命」に対する言葉なのであろう。
「罪深いわれらに苦い死を与えないでくれ」という祈り歌。聖職者だったゴンベールは、預けられた少年を陵辱した罪に問われて、ガレー船での服役を宣告されたという。
最近のカトリック教会も同じような問題を起こしている。
教会は、世俗社会の関係に支配されていて、ペテロ、パウロの時代とは程遠い。
しかし,人間は「命半ばに」死んでも、音楽は、神への祈りの言葉として歌い継がれてゆくだろう。
また、ゴンベールはジャヌカンの「狩の歌」のような世俗の歌も作っている。
「兎狩り」がそれである。日本のデュークエイセスの「筑波山麓合唱団」思い起こさせる。

繰返し聞き続ける古楽(9)-17 レリティエル   モテトゥス「ニグラ・スム」

ジャン・レリティエル(仏、伊1480-1552)はジョスカン・デプレの弟子である。
彼のモテトゥス「ニグラ・スム」は、パレストリーナが、それをもとにパロディミサ「ニグラ・スム」として作曲していることから、注目されいるのであるが、レリティエルの素朴な美しさは胸に染み入ってくる。
「ニグラ・スム」は旧約のソロモン雅歌にテキストがあるが、「私は、色が黒いが美しい。だから王に愛されて、ご自分の寝室に導き入れられた。」という元来エロティックな歌詞が、主とマリアの詩に変えられていったもの。聖と俗が融合するおおらかさもある。

繰返し聞き続ける古楽(9)-16  W.コーニッシュ「悲しみにくれて」「ああロビン」(世俗歌:キャロル

W.コーニッシュ(英1465-1523)ルネッサンス初期のヘンリー8世時代の傑出した作曲家。
このような美しい曲が、この時代になぜ作られたのかと思われるほど印象深い。
特に「ああロビン」は有名で不思議な音がする曲であるが、それに劣らず、「悲しみにくれて」も、十字架に釘付けにされたイエスの受動の極限ともいうべき姿の悲しみを歌っている。
一方、コーニッシュは宗教曲であるモテトゥスも聞き応えのある作品を作っている。
「サルヴェ・レジーナ」「キリストの母なる処女よ、喜べ」など美しい曲があるが、「スタバト・マーテル」が傑作である。装飾的なパッセージと簡単なパッセージの繰り返す対比と幅広い音域が、多くの連なる山脈を俯瞰するような壮大で美しい流れを作り出している。